ゆるやかな自殺

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ハロー、めめりもさんだよ。

めりもさんはずっと友達がいなかったんだけど最近は友達がたくさんいるので日々が楽しいのである。人生とはこんなにも素晴らしいものか、齢二十八にしてようやく気付く、夏、そして秋。冬が来る。

 

友達の定義とは?などと言い始めるともう進まないしそういうの考えるような年齢でもないのでまず考えない。友達とは友達なのだ。そこに理由はない。

日々の予定がガスガス埋まるほどに友人が居るというのはありがたいことだね、まったく、人に会わない日があっても誰かしらとSkypeや電話をしたりしている。めめりもさんの人生の中で今が一番多忙なのではないか。それほどに人と接している。

 

ここ数日はツイキャスを積極的にやったり短歌アカウント(@memetanka)を復活させたり文章も書き溜めたりしている。それらはきっと私がひとりでいたままだったら行動を起こさなかったことだろう。様々なことをやろうと思えるのは周りに人がいて、奮い立たせるものがあるからだ。すべて稚拙なものだけれど、私の中ではやることに充分に意味があるんだな。そう、中学三年の夏、決して目立つタイプではなかったのに応援団に立候補してそれをやりきった時のように。あの頃の行動力は我ながら本当に頭が下がる。誰かと一緒に立候補したわけでなく(だって友達おらんかったしなあ)ひとりで飛び込んだので当然そこでも浮いたし最後まで馴染めなかった、どころか一部の人間には軽くいびられ続けたがきちんとやり切ったのを私は一生忘れないだろうと思うの。人に話せるような大層なことでもないのだけど私の中では大きなことだった。

 

何かやるっていうのはエネルギーの必要なことで、ひとりで振り絞るには限界がある。私に足りなかったパワーをいま友人達から得ている。すんげーーーーありがたい。し、すんげーーーーーー嬉しいの。私はいま本当に舞い上がっている。幸せなのだよ。

 

 前にここにも書いたしツイッターでも散々書いているのだけど、福岡を出て何処へ行くかずっと考えていた。友達がたくさんいる東京に行くか、誰もいない沖縄に行くか、それとももっと何もない土地に行くか。友達がたくさんいる東京をすんなりと選択できなかったのは、単純に怖かったのだ、みんながいる土地へ行くのが。行ってしまえば大した問題はないのだろうとわかっていつつも選択を怖がっていた。

いまもう完全に東京へ行くしかないだろという状況になりタイミングになり条件が揃っているのでめめりもさんは東京へ移住する予定です。

十年程前に東京へ移住する話があったのだけど全部捨てて福岡に止まった私にとって今更東京へ?という気持ちがないわけでもなく、まあそれでもそれを選びました。自分で。何かを選択するのもエネルギーが要るよね。全部、友人達のおかげだと思っている。それはさ、君たちが来いと言うから行くんだからね!とかいう意味じゃなくてさ、行動に対するパワーを与えて貰ってるというところからだから。

 

拗らせたような言い方になるのだけど「友達がたくさんいる」「友達がたくさんいて幸せ」ときちんと私が飲み込めるようになるのに時間がかかったんだよね。今までの人生に存在しないことだったので、どう解釈してよいかわからんかったわけ。「友達がたくさんいる」「友達がたくさんいて幸せ」と飲み込めてやっと私の中にうまれた結論は「結局今までと変わらないまま、人生はゆるやかな自殺だ」ということであった。

過程や選択や、それに対する行動や、思うことへのオプションが増えただけで基本的なものはなにも変わらんのやん、というところに着陸した。それが随分と私を楽にしてくれた。死へ向かうことが安心と共存するってのがちょっとばかしおかしいんかもしれんけども、それで生きられるのならそんなんどうでもいいことではないかい?少なくとも私はそこへやっと辿り着いて、平穏な気持ちを取り戻した。根本は死。何処で生きていようが必ず死ぬのだ。

 

本当は、本当は死を基盤に置かなくてよい人生だって望んでいるのだけど私にはそれがきっと似合っているのだと思う。逃れられなく、忘れられないのだとも。でもいま充分な人生を謳歌している。ゆるやかな自殺だとしても、いま私は心から幸せだよ。

 

友人達全員と結婚したい。結婚しよ。

 

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